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心の神話 出光真子の映像世界

西嶋 憲生 著

somethingwithinme_0770年代初頭から彼女はフィルムとビデオという2つの映像メディアで平行して制作してきたが、フィルム作品の多くは繊細でやわらかな抒情的スタイルをもち、言葉が使われる場合は主に作者自身のナレ−ションである。自然光で木々の影や空を撮った映像がしばしば登場し、光をハイコントラストで捉えた抽象作品『At Yukigaya 2』(1974)、 詩的で造形的な『Something Within Me』(1975)、日常性の中の時間を省察した 『At Yukigaya 4』(1979) 、影を撮りつつ子離れした後の母親の心境を語る『たわむれときまぐれと』(1984)など忘れがたい。『父の情景』(1981)や母の死を語る『ざわめきのもとで』(1985)もこの作家を理解する上で重要だろう。影をよく撮ることについては「私の内面の状況を映しだす光と影」と書いたことがある。 (註1)

「私という語り手」の主観的まなざしとナレ−ションが光と影で造形的に表現されるこれらのパ−ソナルなフィルムはすぐれているばかりでなく、フィクショナルなドラマを導入した80年代からの彼女のビデオ作品と形式的にも内容的にも方向を異にするから重要なのだ。どちらにも「主婦の日常性の意識化」という視点がベ−スにあり、それが出光作品を他の作家たち(男性作家のみならず多くの女性作家とも)と異なるきわだったものにしているのは事実だが、フィルム作品の多くが「私」の内的イメ−ジをストイックに静かに坦々と表現していると見えるのに対し、フィクショナルな人物の感情を描くビデオ作品は攻撃的で激しく苛立ち、演技も誇張され執拗に見える。出光真子というア−ティストは一見相反するこの両面で理解されるべきだし、その二面性を影と実体のように、あるいは鏡像のように相補的に見る必要がある。

たとえば、出光真子のビデオ作品で彼女の「署名」とも言える固有で独創的な手法は画面内に置かれたテレビモニタ−である。意識的に使われ出したのは『主婦の一日(Another Day of a House Wife)』(1977-78)からであろう。当時作者は「女の日常、あるいは非日常を記録し、そこから女の意識、無意識の領域を探っていく」ことにビデオを使うと述べ、「主婦が日常の決まりきった行為をしている間、彼女自身の目がポ−タブル・モニタ−から彼女を見つめている。それを解釈するとかしないといったことは見る者の勝手だ。私はただ観察するということに興味を持ったのである」と書いた。(註2) この観察する目は、作者が映画カメラで影を、「内面の情況」を見つめた行為のメタファ−でもある。

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『At Any Place 4』(主婦のタンゴ)より

主婦のタンゴ『主婦の一日』はフィクショナルな日記だったが、作者自身が主人公の主婦を演じたため(女性一般でなく)彼女個人の私的な現実と混同される恐れもあった。もっと後に作者は当時「ふたりの子供を育てながら、主婦であることにうんざりしていました。日常の果てしないくり返し。その背後で、もうひとりの自分が主婦である私を視ている。私は誰だろう!生きることとは何だろう!という問いかけを他の人とも分かちあいたかった」(註3)とも書いている。作者にとっても、パ−ソナルな現実の表現とそれをもっと一般化した社会性という二つの方向が混在していたことが伺える。 ちなみにヨネヤマママコの「主婦のタンゴ」に影や空の映像(自身の内面性)を重ねたフィルム 『At Any Place 4』(1978)が作られたものもほぼ同時期である。

結局、彼女は「私の世界」であるパ−ソナルなフィルムを作りつつ、ドラマやフィクションを援用しビデオでより社会的な問題提起を行うことになる。ビデオ画面内のモニタ−は、『シャドウズ・パ−ト2』(1982)あたりから寸劇的にドラマ的物語性が導入されると共に「観察する目」から主人公の「心の内側」(あるいは無意識)を表わす装置となっていく。この転換を理解するには、出光真子が早くからユング心理学に興味を持ち、「影」「アニムス」「グレ−ト・マザ−」(いずれも彼女の作品タイトル)などがユング心理学のキ−概念であることを知っていた方がいいかもしれない。心の深層(無意識)は言葉や論理でなくイメ−ジに支配されるという。そのイメ−ジを「視覚化=意識化」し、演劇的に提示する手段として画面内モニタ−が使われたのだ。ユングはたとえば夢に現れる無意識のイメ−ジをさまざまな「元型」を通して理解したが、出光真子の「物語」の導入や「心像」としての画面内モニタ−の登場もユング心理学との関連で考えることができる。 (註4)

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1983年の『英雄ちゃん、ママよ』や『グレ−ト・マザ−』シリ−ズ(註5)に始まり『加恵、女の子でしょ!』(1996)に至る彼女のフェミニズム的ドラマ作品の登場は、ちょうどビデオア−トの中で新しい物語性(new narrative)が注目された時期とも重なる。しかし出光真子の物語性は、個別のスト−リ−やディテ−ルを伝えたり主婦の苦悩や欲求不満を語るのが目的というよりは、もっと普遍化され象徴化された「関係」や「構造」を自覚化させようとする。自身の体験も反映されているかもしれないが、そうして私的ティテ−ルやいま現在のリアリティよりも「神話」(より正しくは「民」話だが)のような普遍化されたスト−リ−を求めているように見えるのだ。

その手法も、画面内に大きなモニタ−が異物的に介入するだけでなく、ドラマに感情移入させ引き込むのでなくむしろ芝居であることを自覚させながら状況を提示するブレヒト的スタイルだ。心理的なBGMも使わない。リニア(直線的=因果論的)な物語法でなく二つの関連する出来事を並置するため長回しが多く、20分ほどの作品で15から20ショットという構成は通常の劇映画(その10倍が普通)にくらべ極端に少ないのも特徴だ。さらに作者は「批判」という視点を前面に出した。日常の記録や描写にとどまらず偏見や固定概念を批判し戦うこと。男性中心社会やその家族構造の中にいる女たちの状況に観客を共感させるのでなく、苛立たせ、ときに居心地悪くさせること(この点でゴタ−ルの日常生活批判のビデオと共通性がある)。この攻撃的批判性により、彼女のビデオはイッセ−尾形が演じるサラリ−マンの悲哀と裏腹の現実を取り上げながらまったく方向の違うフェミニズム・ア−トになったといえる。(註6)

KiyokosSituation_17このシリ−ズで最も独創的な最高作と思われる『清子の場合(Kiyoko’s Situation)』(1989)ではモニタ−は強迫観念のように画面内に大きなスぺ−スを占め、その強大な力でヒロインの画家としての可能性をつぶし、良妻賢母でないことを責め立てていく。女性が結婚すると専業主婦になるのが通例とされた時代にア−ティストであろうとした女性への無理解の物語、そしてその孤立した心の叫び。劇中で主人公は本の一節を読む。「私は侮辱された同性の恨みを、威張っている男性に向かって晴らしたい。男性がやさしい女性に勝っている点といえば、粗暴な力だけではありませんか」主人公の心は引き裂かれ、この抵抗の物語は自殺で終わる。

出光真子がくりかえしこうした批判的ドラマを作らずにいられなかったのは、彼女自身の生まれ育った家庭環境、結婚等によりアメリカに暮らした60年代に出会った女性解放運動、自身の二重のアイデンティティ(主婦/ア−ティスト、日本/アメリカ)のすべてを含む彼女の長年の「影との戦い」と関連するだろう。そのドラマを素朴なリアリズムで理解するには、すでに述べた彼女の手法に対する誤解になると思う。現実を下敷にしていてもあくまで(女性の側から見た)「心のイメ−ジ」「心の神話」が主題なのだ。スト−リ−にしても重要なのは、原因から結果へ向かう物語の展開やサスペンスではなく、その底にある関係性の全体、ユング心理学でいう「コンステレ−ション(布置)」の方である。出光真子が一見ステレオタイプな人物を使って似たような物語をくりかえしビデオ化してきたのは、日本社会の女性像・母子像をめぐる「元型」に辿り着きたかったからではないだろうか。それは、普遍化された元型的スト−リ−(神話、民話、昔話、童話などのような)を獲得しようとした困難なプロセスに思えるのである。この点でもユング心理学から彼女の手法を考えてみる必要性があると思う。

KaeActLikeAGirl_134加恵、女の子でしょ!最新作 『加恵、女の子でしょ!』(1996)ではモニタ−は抽象化され、心の深層ではなくただ単色を表示する。これまで画面内モニタ−に閉じ込められて表わされてきた心的イメ−ジは、制作中の大きなキャンバスに投影されたり、台所で洗う皿に投影されるという形で広がりを持って表現された。若い画家カップルの共同制作が次第に男にキャンバスの面積を奪われていく場面など辛辣だがユ−モラスでもある。『清子の場合』の悲劇と違ってヒロインは離婚し画家として再生し、ラストで自分を肯定している。これまでとは違う新たな物語を感じさせる作品である。

註:
(註1)『ざわめきのもので』自作解説、『第5回実験映画祭』カタログ、1985年、イメ−ジフフォ−ラム・スタジオ200
(註2)「作品について」『日米ビデオア−ト展』カタログ、1980年、西武美術館
(註3)『主婦の一日』自作解説、『ビデオ・新たな世界−−− そのメディアの可能性』展カタログ、1992年、O美術館、52ぺ−ジ
(註4) ユング心理学については河合隼雄の数多くの著書がわかりやすい(たとえば『影の現象学』講談社学術文庫、『昔話の深層』講談社+α文庫、『イメ−ジの心理学』青土社など)。出光作品をユング心理学との関連で考察した文章には三木アヤ「内面への探求」(ビデオギャラリ−SCANプログラム表、1982年3月・4月)。またかつて出光真子のパ−トナ−だったアメリカ人画家サム・フランシス(1923-94)もユング心理学の影響をよく語った。
(註5)『晴美』(83年、13分)『ゆみこ』(83年、23分)『幸子』(84年、20分)の3編
(註6) 出光真子が主に「グッド・ガ−ル」の悲劇を描くのに対し、アメリカのフェミニズム・ア−ティストは「バッド・ガ−ル」の自己主張を前面に出す。90年第にNYの新現代美術館(New Museum of Contemporary Art)で催されたフェミニズム・ア−ト回顧展が”Bad Girls”と題されたのは象徴的

 

西嶋憲生(にしじまのりお)映像批評家 多磨美術大学・東京造形大学講師。実験映画・ビデオア−トなどア−トとしての映像表現を研究。『BT』『武蔵野美術』に連載。著書『生まれつつある映像』(文彩社)、訳書『フィルム・ワ−クショップ』『アンディ・ウォ−ホル・フィルム』(ダゲレオ出版)、『絵に隠された構図』(同朋舎出版)ほか