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「個人映像の志」

佐藤忠男

『ビデオ SALON』2005年8月号

 

出光真子は個人映像の注目すべき作家のひとりである。 1969 年にアメリカで8ミリカメラを手に入れてカリフォルニア大学の夜間講座に通って実験映画を作り始め、まもなく 16 ミリで撮るようになった。

1972 年の ” Woman \’ s House ” は、一軒の家の中のやたらきれいで艶っぽい装飾のある壁や階段をなめるように撮ったもので、そこには乳房の模型みたいなものがベタベタ貼りつけられていたりして、ちょっと薄気味が悪く、そこで今、女であるということの条件が、この撮り手にとってなんとも耐え難い桎梏のようなものとして感じられていることがピンとくる。豊かそうだが閉鎖的な空間の自由のなさ、息苦しさが見事に暗示されていた。

以来、出光真子のたくさんの作品は、女は女らしくという家庭での教育のありかたや、主婦はただ家事だけやっていればいいというような夫婦のあり方、さらにはそうした夫に失望した妻が息子を徹底的に私物化していわゆるマザコンの男をつくりあげてゆく様相などを、深刻にしかも滑稽に描くという主題に集中することになる。

それはきれいごとではなく、あけすけで気迫のこもったものである。しかも、ただ主張があるというだけではなく、出光が実験映画から出発しただけあって意表をつく工夫がこらされていて面白い。

実験映画的な工夫のひとつは、特異な二重写しである。 1972 年の“ Inner Man ” では和服で日本舞踊を踊っている日本女性のカラーの映像の上に、白人の素っ裸の男性が黒白の映像でモダン・ダンスを踊っているのが重ねてある。精神分析学者ユングの説く、女の心の中にも男性的な要素があるという考え方の影響のようであるが、単純に意表をつく合成や対比として面白いし、自分の中にもうひとりの自分がいるという、人間のかかえる矛盾をズバリ映像化したものとも言えるだろう。

「主婦の一日」( 1972 年)というビデオ作品では、題名どおり一人の主婦のきまりきった一日の行動が描かれているが、面白いのはどの場面にも画面のどこかにテレビが置いてあって、そこに一つの眼玉が大写しになって写っていることである。誰かに監視されているのか。いや、たぶんそれは、これでいいのかと自分自身の毎日のありかたを見つめている自分の眼なのであろう。現状に満足しないで自分を客観的に見つめ、自分に疑問を問いつづける眼である。

“ At Any Place 4 ” という作品では、風景と二重写しで、舞踏家のヨネヤマ・ママコが「カルメン」の替え歌を歌って踊る。その歌詞は家事と子育てだけに追い込まれている女の立場に真っ向から反発する内容である。

フィルムによる凝った尖鋭な映像でいかにも実験映画的な作品を作っていた初期には、無気味なほどに赤いレバーとか、うごめくかたつむりの群れとか、むしられたりピンでまとめられたりするバラの花びらとかいった映像に、女の気持ちや気分を象徴させるというやり方が見られた。しかし、ビデオを使うようになると、暗示的象徴的な映像だけでなくドラマ形式を取り入れて、もっと直接的にセリフで男性中心社会での女の抑圧された立場を批判し、諷刺する作品を作るようになる。

ただしドラマ形式と言っても、画面の中にテレビを置いて、そこに現実のその人物とは別の行動をするもうひとりのその人物を登場させたりするという実験的な手法は、一作ごとに工夫を加えて盛んに用いられている。それが自問自答になったり、心の中の矛盾を表現したりする。

たとえば 1983 年の 27 分のビデオ作品「英雄ちゃん、ママよ」では、ひとりの主婦が一日中、テレビに息子の生活を撮ったビデオ・テープをかけていて、その映像の息子に話しかけたり、遺影に供物をあげるようにして食事を与えたりしている。息子をいつまでも手許においてペット化しておくことしか頭にないような状態にまで追いつめられた女の猛烈な戯画化である。

「グレート・マザー(晴美)」( 1983 年)、「グレート・マザー(ゆみこ)」( 1983 年)、「グレート・マザー(幸子)」( 1984 年)のビデオによる三部作は、娘を、女らしいという枠の中に強引に押し込むために、言葉のかぎりをつくす母親たちの、その言葉の暴力性をこれでもか、これでもかと強調してみせた作品である。

「女のくせに」とか「女だから」とかいった、ごく日常的に使われている言葉が、そう言われる娘たちにとってどんなに猛烈な攻撃力、打撃力を持つかということが鮮やかに表現されている。その言葉の力で娘は萎縮するが、そこに置かれているテレビの中では同じ娘が別の反応を示していたりする。母親だけでない。教師や批評家もそうである。 16 ミリのフィルムで撮られた出光真子作品としてはいちばんの大作だと思える「加恵女の子でしょ!」( 1996 年)では、画家を志す女性が、教師や批評家から女であるためにどんな差別的な言われかたをするかが辛辣に描かれている。

日本映画にはこれまで、女性の監督は少なかった。とくに劇映画ではそうである。女に同情的な、あるいは女を理解しようと努力した男の監督はいたが、出光真子のように女であることがどれだけの抑圧や差別や人格の歪みをもたらすかを赤裸々にヴィヴィッドに描いた映画はちょっと作られてない。女性の小説家や脚本家は少なからずいたのだが、出光真子のように男性支配社会への怒りを持続し得た女性の表現者はあまり先例がない。それは彼女が、いわゆる専業主婦としての経験をあくまでも表現の土台に据えているからであろう。

出光真子の作品は、日本ではイメージ・フォーラム、アメリカではニューヨーク近代美術館をはじめ各地で個展とトークで上映されており、国際的には高い評価を受けている。

だから決してアマチュアとは言えないが、映画館やテレビで商業的に成功する映画を作っているわけではない。しかしそういう立場だからこそ、多くの専業主婦たちの声なき声を純粋に集約したような作品を作れたのであろうし、画面の中にもうひとつの場面としてのテレビを置いて、それでひとつの場面の中にホンネとタテマエを同時に表現してみせたりするような実験的な離れ業も自由に発展されることができたのであろう。