白々と明るいつくりものの家庭
出光作品の母・息子・娘
萩原 弘子
1980年代からの出光真子の作品によく登場するのが、居心地の悪そうなつくりものの家庭空間である。妙に白々と明るく、ときに寒々と暗いその人工的な空間には、必ずテレビ・モニタ−が置かれている。そこは夫婦、親子の関係にある男女がつくる、見栄と諦め、便宜と打算、支配と依存の場であり、モニタ−画面には、そうなるまでの家族の歴史が映し出される。
「家庭に入る」「社会に出る」とはよく言われるが、家庭は社会の外にあるわけではなく、社会のまっただなかにある。いやそれどころか、出光作品を見ていると、家庭は社会そのもの、と言いたくなる。われわれを社会の期待するままに、女あるいは男にするのは、まず家庭である。「個人的な問題は政治的な問題」とはウ−マン・リブ以来のフェミニズムのスロ−ガンだが、出光もまた個人の私的な状況の政治性に注目するア−ティストだ。厳しく性別分業された家族関係のなかで、あるべき女、あるべき男への人をたわめる場として、出光は家庭を描く。しかもそれは、いつでもどこでも家庭とはそういうもの、といった大ざっぱな普遍化には流れない、特定の歴史的、社会的条件のなかの家庭、つまり、1960年代半ば以降の高度経済成長期の日本社会を支えてきた最小単位の社会機構としての家庭である。
母と息子の愛の絆
なかでも The Marriage of Yasushi (1986)と Yoji, What\’s Wrong with You (1987)の2作品は、この30年間の日本社会を支えてきた家庭について考えさせる。ここに登場する母と息子の関係は、息子の新妻もはいれない親密さで、淫靡なほどだ。これは一朝一夕にできたものではなく、母と息子のもたれあう関係には歴史がある。モニタ−画面が、会社人間だった頃の父の横暴と、母の諦めを伝えている。ヨ−ジを生む前の若き日の母が、夫に期待して言った「幸せにして」という言葉は、やがて息子に向けられるようになる。ヤスシの母も、彼女を家政婦とした見ない夫に、ひそかに憎悪をつのらせながら、ひたすら息子の将来に望みをかけて家庭を守ってきた。夫に対する失望や軽蔑は、息子に対する期待や執着で埋めあわされる。「幸せにして」とだれかに頼っているかぎり、幸せになれるはずはない。しかし皮肉なことに、「家庭の幸せ」「女の幸せ」神話は頼る相手を夫から息子に乗り換えることで確実に再生産されてきたのである。空洞化した家庭のなかで、母は息子への愛にあふれて気味悪いほどになまめかしい。
企業戦士として高度経済成長をになった父のほうは、それなりの年齢となって、すっかり抜けがらと化してしる。女遊びで妻を裏ぎりつづけてヨ−ジの父は、画面の奥で、出されたものを黙って食べている。かつてあれほど横柄だったヤスシの父は、いまはぼんやりと常識的なことを言うだけの好々爺となっている。どちらも、長年ともに暮らした妻とのあいだに会話はない。 高度経済成長期に求められた、働き蜂で会社第一の男と、家庭を守って夫に寄食する専業主婦という組み合わせの家庭が、使命を終えた果てに残したものはなにか。ヤスシの若妻は、ママにばかり気をつかう夫に愛想をつかして、またも自分の息子への期待と執着に生きることになるのだろうか。それとも、空洞化した家庭が再生産されるような社会的、経済的基盤はすでに崩れていて、若妻はヤスシの母とは違う人生を歩むのだろうか。
母−−父権の代行者
母は、娘に対しても抑圧者となる。Great Mother のシリ−ズは、母と娘の困難な関係をとりあげたものだが、なかでもYumiko(1983)は、抑圧者たる母のうしろにあるものを示唆している。ユミコの母はヤスシやヨ−ジの母と違って自分の仕事をもち、職業人としての責任と誇りを知っている。発言は筋が通っていて、すきがない。
yumiko 主婦としてもぬかりのない完璧さで家のなかを整えている。その母が、娘に対しては抑圧者となる。すでに成人した娘に洗濯物のとりいれ方、たたみ方までこと細かに指示をくだすようすは、まるで容赦ない調教師だ。娘ユミコは、未熟さと母への反抗から、道で声をかけてきた男についていった末に、なりゆきで子供を産む。このとき母は凛として騒ぎたてず、「あなたの決めたことです」と冷静に娘を送りだす。ユミコの危うい結婚は予想通り破綻するが、母の手腕でなんとか解決されそうな予感を残して作品は終わる。母は、けっしてユミコの理解者ではない。娘は成熟をはばまれ、すきのない完璧な母にたわめられ罰せられつづけているのだ。母が、こうして娘の抑圧者となるのはなぜか。
この母には守り抜きたい或る種の生活スタイルがある。教育の高さを思わせる彼女自身の仕事、東京・山の手のかなりの暮らしぶりの階層に特有の言葉づかい、そして一家の主人たる夫に対する彼女の気づかいは、どれもこれもこのイエが「結構な」階級であることを示すサインである。母は、娘の愚かしい行動にとり乱すこともなく、娘と一緒に泣いてやることもない。彼女が帰属感をもつ階級の誇りとスタイルをまっとうしようとする姿勢が、娘には抑圧となる。この母の階級意識を決定させているのはイエであり、具体的には「お父さま」と彼女が呼ぶ、家父長たる夫である。母は家父長の有能な代理として父権を代行し、娘を自分の操作圏内にとどめおき、結局はその階級なりの女にしたてようとしているのである。
出光の作品から階級を論ずるのは、的はずれと思われるかもしれない。出光がつねに父権制の抑圧テ−マとしてきたこ とは知られているが、しかし私の見るところ、出光が優れているのは、父権制をただ男対女でとらえるのではなく、時代、社会、階級などを特定し、その具体相に沿って父権制の抑圧を見えるようにする点である。
加恵の現実と非現実
新作『加恵、女の子でしょ!』(1996)は、Kiyoko\’s Situation (1989)につづいて、女がア−ティストとなることの困難をテ−マとしている。
加恵、女の子でしょ この2作は、家族関係のなかで娘にふるわれる父権ばかりでなく、芸術の世界の父権制に正面からとりくんだものだ。
息子にはひとかどの者になれと期待する親が、娘には期待を寄せない、あるいは娘の希望を邪魔だてする。美術大学の教師も、画商やギャラリ−や美術評論家がつくる世界も、女に言うことは同じだ。可愛く諦めなさい、女が絵を描くのは趣味である、子供を産むのが女の創造力、女ならではのテ−マを描け−キヨコや加恵に言われている言葉は出光のフィクションではない。出光自身の経験、画家であった彼女の姉の経験はもちろんのこと、出光が取材したなん人もの女性画家、美術大生の経験をもとに練りあげられたスクリプトである。美術界を知る女性なら「そうそう、こんなこと言われたことある」と思う箇所がいくつもあるはずだ。
しかし出光の作品の力は、現実をありのままに描いたことにあるのではない。鑑賞者にも覚えがある現実を、ただそのままになぞるだけでは表現として無意味である。われわれはかなり過酷な現実でも、馴れて受け入れてしまい、あらためてその過酷さの意味を考えないでいるものだ。出光の映像は、そんな鑑賞者が、馴じんでしまった自分の現実に違和感をいだき、そこから距離をとって考えられるようにつくられている。
『加恵』の場合で言えば、女性画家に対して言われてきた現実ありのままの発言を、不可解な俳優の動作や、人工的な空間といった非現実とあえて組み合わせることで、鑑賞者にまず「これはなんだ」と思わせ、ついで鑑賞者がずぶずぶの日常から身を離して、加恵の現実/自分の現実を批判的にとらえられるようになっている。ここで非現実とは、たとえば冒頭の、パイプに指をつっこむ美術教師の動作、Kae 加恵と母がいくつものテレビ・モニタ−を動かし回る動作、なん人かの出演者のぎこちない台詞、会話のなかの奇妙な空白、そしていかにもつくりものの白く明るいセット空間である。これらのせいで、鑑賞者はただ安穏と受け身の鑑賞者にとどまってはいられなくなる。加恵の現実と奇妙な非現実を、自分の知る現実とつきあわせ、やがて、加恵になげかけられている聞き覚えのある言葉の、ただならぬ暴力性や底なしの愚劣さに気づくようになるのである。こうして鑑賞者をゆさぶり、現実に安住させない点が、出光の映像のラディカルな力である。
悲しい最後だったキヨコと違って、加恵は表現者として未来を開いてゆきそうだ。おまけにミノルのいまの恋人が加恵を見る目には、やがて彼女もミノルを追い越していくだろうと思わせる輝きがある。ヤスシ、ヨ−ジ、ミノルなど、息子の未来は知らない。しかし出光作品の娘は、ユミコからキヨコ、そして加恵への確実に成長している。1990年代も後半の家庭でいま育つ娘たちは、たくさんの加恵だろうか。それとも彼女たちは、加恵ほどの回り道もしないですむだろうか。
萩原弘子(はぎわらひろこ) 大阪女子大学教員 芸術思想史 著書 『解放への迷路−イヴァン・イリッチとはなにものか』(インパクト出版会 『この胸の嵐−英国ブラック女性ア−ティストは語る』(現代企画室) 『もうひとつの絵画論−フェミニズムと芸術』(若葉みどりとの共著 松香堂) 『美術史を解きはなつ』(富山妙子 浜田和子との共著 時事通信社) 訳書『女・ア−ト・イデオロギ−−− フェミニストが読みなおす芸術表現の歴史』(新水社)