最新作『加恵、女の子でしょ!』(96年)は、出光さんの表現論が主題と方法の両面において見事に結実した作品になった。

ここに出てくる「見えるもの」と「見えないもの」の関係というのは、出光さんがビデオを手にし、ビデオならではの手法として、画面のなかにテレビのモニタ−を映しだすことを始めた当初から、彼女の作品にある種の骨格を与えてきたように思う。
たとえば、モニタ−を画面に取り込んだ最初の作品『Another day of a Housewife』(77年)は、主婦の一日をスケッチ風に綴ったものだが、すべてのカットにテレビモニタ−が登場する。画面にはずっと、クロ−ズアップの大きな目が一つ映っているだけ。これだけで、常に誰かに見られながら、他者の視線に晒されながら生活している主婦のありようがあらわになる。つまり、この目は夫や子供、両親、ひいては社会全体の目と想像することができるわけだが、実際はそこには目しか映っておらず、この目の持ち主の姿は見えない。男の目なのか女の目なのか、何を見ているのかもわからない。しかも、主人公には目はおろかモニタ−の存在すら見えないのだ。画面のなかに一台テレビのモニタ−を置いただけで、そしてそこに目を一つ映しただけで、モニタ−の内と外、映像と観客との間には、見えることと見えないことの関係、見ることと見えないものを想像することの差異が生まれる。こうした関係と差異を、70年代以降の欧米のフェミニズム映画は女性の存在とセクシュアリティの可視制をめぐって、意識的に構造化させてきたと思う。アメリカの映像研究者テレサ・ドゥ・ロ−レティスは「映画と目に見えるもの」という論文で、あるレズビアン映画を分析するにあたり、以下のことを前提に論を進めている。「何が見えるかという問題、つまり見ること(映像として見せること)と心のなかで“見ること”との関係や映画の観客と夢想との関係、主体や欲望と想像的なもの、とりわけ映画という想像的なものとの関係が、作品の前面に現れている」。この視点は、出光さんの作品を見ていく上でも欠かせないと思うのだ。

ところで、ぼくはこの『加恵、女の子でしょ!』を劇場ではなく、テレビのモニタ−でヘッドフォンをしながら見たのだが、音の使い方がすごく気になった。機会的なノイズのような、ザザザッとかボソボソッていうような音が左右のスピ−カ−から、はなはだバランスを欠いたまま聞こえてくるのだ。まるでノイズ同士がせめぎあっているように聞こえる。出光さんによると、今回の音の設計は、観客が画面に感情移入するのを防げるような音を入れることからスタ−トしたという。そして、加恵と実が絵を描いているときは、カンバスをこするような音を二つ同時に聞かせ、実のカンバスが広がっていくにつれ実の音を大きくしていくといった工夫をする。物語りの進行とともに、音のバランスも変化するわけだ。「見える」「見えない」だけではく、「聞こえる」「聞こえない」という関係もまたせめぎあいだ。『加恵、女の子でしょ!』で出光さんは新たに「音の性政治学(ジェンダ−・ポリティックス)」という領域に足を踏み入れたような気がした。