70年代初頭から彼女はフィルムとビデオという2つの映像メディアで平行して制作してきたが、フィルム作品の多くは繊細でやわらかな抒情的スタイルをもち、言葉が使われる場合は主に作者自身のナレ−ションである。自然光で木々の影や空を撮った映像がしばしば登場し、光をハイコントラストで捉えた抽象作品『At Yukigaya 2』(1974)、

「私という語り手」の主観的まなざしとナレ−ションが光と影で造形的に表現されるこれらのパ−ソナルなフィルムはすぐれているばかりでなく、フィクショナルなドラマを導入した80年代からの彼女のビデオ作品と形式的にも内容的にも方向を異にするから重要なのだ。どちらにも「主婦の日常性の意識化」という視点がベ−スにあり、それが出光作品を他の作家たち(男性作家のみならず多くの女性作家とも)と異なるきわだったものにしているのは事実だが、フィルム作品の多くが「私」の内的イメ−ジをストイックに静かに坦々と表現していると見えるのに対し、フィクショナルな人物の感情を描くビデオ作品は攻撃的で激しく苛立ち、演技も誇張され執拗に見える。出光真子というア−ティストは一見相反するこの両面で理解されるべきだし、その二面性を影と実体のように、あるいは鏡像のように相補的に見る必要がある。
たとえば、出光真子のビデオ作品で彼女の「署名」とも言える固有で独創的な手法は画面内に置かれたテレビモニタ−である。意識的に使われ出したのは『主婦の一日(Another
Day of a House Wife)』(1977-78)からであろう。当時作者は「女の日常、あるいは非日常を記録し、そこから女の意識、無意識の領域を探っていく」ことにビデオを使うと述べ、「主婦が日常の決まりきった行為をしている間、彼女自身の目がポ−タブル・モニタ−から彼女を見つめている。それを解釈するとかしないといったことは見る者の勝手だ。私はただ観察するということに興味を持ったのである」と書いた。(註2)
この観察する目は、作者が映画カメラで影を、「内面の情況」を見つめた行為のメタファ−でもある。

結局、彼女は「私の世界」であるパ−ソナルなフィルムを作りつつ、ドラマやフィクションを援用しビデオでより社会的な問題提起を行うことになる。ビデオ画面内のモニタ−は、『シャドウズ・パ−ト2』(1982)あたりから寸劇的にドラマ的物語性が導入されると共に「観察する目」から主人公の「心の内側」(あるいは無意識)を表わす装置となっていく。この転換を理解するには、出光真子が早くからユング心理学に興味を持ち、「影」「アニムス」「グレ−ト・マザ−」(いずれも彼女の作品タイトル)などがユング心理学のキ−概念であることを知っていた方がいいかもしれない。心の深層(無意識)は言葉や論理でなくイメ−ジに支配されるという。そのイメ−ジを「視覚化=意識化」し、演劇的に提示する手段として画面内モニタ−が使われたのだ。ユングはたとえば夢に現れる無意識のイメ−ジをさまざまな「元型」を通して理解したが、出光真子の「物語」の導入や「心像」としての画面内モニタ−の登場もユング心理学との関連で考えることができる。
(註4)

その手法も、画面内に大きなモニタ−が異物的に介入するだけでなく、ドラマに感情移入させ引き込むのでなくむしろ芝居であることを自覚させながら状況を提示するブレヒト的スタイルだ。心理的なBGMも使わない。リニア(直線的=因果論的)な物語法でなく二つの関連する出来事を並置するため長回しが多く、20分ほどの作品で15から20ショットという構成は通常の劇映画(その10倍が普通)にくらべ極端に少ないのも特徴だ。さらに作者は「批判」という視点を前面に出した。日常の記録や描写にとどまらず偏見や固定概念を批判し戦うこと。男性中心社会やその家族構造の中にいる女たちの状況に観客を共感させるのでなく、苛立たせ、ときに居心地悪くさせること(この点でゴタ−ルの日常生活批判のビデオと共通性がある)。この攻撃的批判性により、彼女のビデオはイッセ−尾形が演じるサラリ−マンの悲哀と裏腹の現実を取り上げながらまったく方向の違うフェミニズム・ア−トになったといえる。(註6)
出光真子がくりかえしこうした批判的ドラマを作らずにいられなかったのは、彼女自身の生まれ育った家庭環境、結婚等によりアメリカに暮らした60年代に出会った女性解放運動、自身の二重のアイデンティティ(主婦/ア−ティスト、日本/アメリカ)のすべてを含む彼女の長年の「影との戦い」と関連するだろう。そのドラマを素朴なリアリズムで理解するには、すでに述べた彼女の手法に対する誤解になると思う。現実を下敷にしていてもあくまで(女性の側から見た)「心のイメ−ジ」「心の神話」が主題なのだ。スト−リ−にしても重要なのは、原因から結果へ向かう物語の展開やサスペンスではなく、その底にある関係性の全体、ユング心理学でいう「コンステレ−ション(布置)」の方である。出光真子が一見ステレオタイプな人物を使って似たような物語をくりかえしビデオ化してきたのは、日本社会の女性像・母子像をめぐる「元型」に辿り着きたかったからではないだろうか。それは、普遍化された元型的スト−リ−(神話、民話、昔話、童話などのような)を獲得しようとした困難なプロセスに思えるのである。この点でもユング心理学から彼女の手法を考えてみる必要性があると思う。