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欲望の散るとき “Still Life”によせて

香川 檀

「いまは夜、いまは夜ではない--- 」 ビデオの冒頭に聞こえてくる、この謎めいた独白モノロ-グはなにを意味するのだろう。 女が抱えもつ昼と夜の時間。それとも日常とその隙間にぽっかりあいた“影”の瞬間。どちらにしても、一見「静物画スティルライフ」のように平穏な女の「静かな生活スティルライフ」の内側には、現実と深層のあいだにぴんと張りつめられた男の知らない弧線がある。

その上をなぞるかのように、昼の意識と夜の夢想とのイメ-ジが交錯しながらスクリ-ンに映し出される。といっても、映像をうけとめ物語を生起させる“場”となっているのは、二つの花をかたどった一対の大きなオブジェである。真ん中に突起のある花 --- そう、オキ-フが好んで描いたあのカラ・リリ-のように--- と、そして襞のある花。ここで重要なのは、このふたつの、やわらかな曲面をもったスクリ-ンを前に、わたしたちの視線が否応なく分散されるということだろう。同時進行しつつ互いに呼応する左右の映像を目で追っていくのは、引き裂かれた現実と深層を交互にのぞくという骨の折れる心理的プロセスを追体験することに他ならない。

<突起のある花>と<襞のある花>--- 闇のなかに白く浮かび上がったそれらは、女性と男性が向き合うときの欲望の焦点となる身体器官。いや、紛れもなくあの突起は偕楽の器官なのだけれど、実は女も男も等しくもちあわせているものである。二つの花の性的メタファ-は、幾種にも意味が開かれている。痛々しいのは、映像の重ね合わせによってその突起に無数のピンが突き刺されることだ。赤いバラの花びらを束ねながら。

<赤いバラ>--- それは女性の象徴であるとともに、欲望の断片をひとひらずつ束ねあわせた、いのちの花。それが萎んで枯れていく。あるいは、むしりとられて散っていく。赤い血のように。すべては女が閉じ込められた、理不尽な現実のせい。

<閉じ込められた女>--- 耐え忍ぶこと、与え続けること、それがずっと女性の役回りだった。どんなに拒んでも撥ね付けても逃れようのないなかで、女としての花の夢想はおし殺されていく。「わたし、欲しい?欲しくない?」。のぞき込むのも怖い深淵。

出光真子はこれまでもずっと、十全に生きたいという女性の希ねがいと葛藤をテ-マにしてきた。ビデオという表現メディアがそのための大きな可能性を秘めていることにも、早くから気付いていた。例えば、ありふれた日常の光景のなかに内面の心理をうつす「心の窓」をあけて、二重画面による映像どうしの衝突と共鳴とあみだす手法。今回の作品はさらに美的、音楽的効果が周到に計算されていて、こちらの網膜にも鼓膜にも、鮮烈な官能のインパルスをおくっている。

思えば、視覚によって女の快楽を表現するというのは、ひと筋縄でいかない企てである。過去にそのための造形言語というものが圧倒的にまずしかったからであり、またもしそれだけを取り出して表現すれば、たちどころに男ののぞき見趣味的な欲望の構図に奉仕してしまうだけだからだ。女が女の欲望を表現するには、社会を日常生活というコンテクストのなかで、まずはその苛立ちを---- むしりとられた花びらのように--- 差し出さなければならない。それは裏を返せば、男なんかいなくとも女のエロスはもともと我が身に向かうのだというオ-トエロティズム(自体愛)の神話に容易に妥協してしまわない、関係性への希求ではないか。
スクリ-ンの下の床に撒かれた、干からびたバラの花びら。それは、「静かな生活」の奥深くで、いたずらに虚空へと流された女の欲望と生理の残滓なのである。

香川 檀(かがわ まゆみ)“女性と表象”より